ミンミンゼミの最終定理

~徒歩5分の電撃戦~

夜と霧 - ドイツ強制収容所の体験記録

強制収容所という究極の運ゲー

 作品の感想一作目として「夜と霧」について触れていこうと思う。私が読んだのは旧版だったので新版とはまた翻訳から受ける印象が違うかもしれない。正直旧版は初版が1961年とだいぶ現代語の表記とはかけ離れた部分が目立つため、新版をおすすめしたい。ただ、付属の資料は旧版のみ(というより訳者が補足的に付け足したらしい)なのでそれも気になる人は一見の価値があると思われる。

 この本は名著としてすでに世に知られている作品であり、ことさら概要をまとめる必要もないかもしれないが、さわりを記述しようと思う。著者であるヴィクトール・E・フランクルがナチスドイツ政権下において強制収容所に収容され、そこで経験した出来事や見てきた光景、関わった人々についてまとめ、またその極限状態においてどのように彼は生きることを決意したか、著者の精神医学的知識を踏まえつつ説明と回顧をしているノンフィクション作品であり、また質的調査的な側面を持った本である。

 私がこの本の存在を知ったのはyoutubeの解説動画からであった。詳細に、そしてポイントをわかりやすくまとめてくれているため非常に有意義な動画であった。さて、それを踏まえつつ読み進めていたのだが、やはり人から説明を受けるのと実際に書かれている文から受け取るものはだいぶ違いがある。それ故に解説やまとめサイトで概要は知っているという人でも一度図書館で借りたりして読んでもらいたい作品である。

 さて、詳細に入っていこう。旧版では、なんと初めに訳者の70ページ弱の解説から始まる。内容としては当時の時代背景の簡単な説明を混じえながらいくつかの強制収容所の実態を補足するものとなっている。正直訳者のイデオロギーが垣間見えるが、フランクル本人と会談した人物でもあるため解説を軽視して進むのは旧版を読むにあたってもったいない行為だと思う。

 さて、肝心のフランクルが書き上げた夜と霧の内容は全9章で構成されている。主に6章までは半時系列的に強制収容所の情景が語られており、それに対するフランクルや周囲の反応がまとめられている。7章から先は収容所内で起きた特筆すべき出来事から心理的に起きる考察をしているものであり、この7~9章の中で特にフランクルが触れたいことが述べられている。そのため前半7章に対してやや哲学的で抽象的な内容が増えており、私も正直すべてを理解したとは言えないだろう。しかし全体としてみれば専門用語は少なく描写と考察がメインの内容である。そのため実際に読むと解説との差を大きく感じるのかもしれない。

 すべての章の概要をまとめることは他の解説サイトがしていると思うので個人的に気になった部分をピックアップしていこうと思う。3章における”胃のオナニー”……つまり食料が満足に食べられない状況で囚人達が食事について語りあうことを指すのであるが、それを著者は一瞬の満足感の錯覚を与える行為としてあまり良いと思っていなかった。こういったメタ認知的な考察は心理学を心得ている者でなければ出てこないだろう。本書ではセンセーショナルになりすぎず当事者としての語りがあるという魅力が大きい。また、ある囚人がある夜悪夢にうなされているのに気づいた時起こそうと思いたったがそれを止めた。なぜならばどのような悪夢であってもこの強制収容所の現実よりはマシであると考えたからである。それほどに彼らの経験したものは想像を絶するものであり、それを表すには言葉はあまりにも無力な存在なのだろう。

 4章で述べられた妻の幻影に支えられた話についても触れておきたい。極限状態で強制労働を強いられ、心が挫けそう担った時、簡単に言えばタルパとして妻が眼前に現れ(妻も収容所に連れられその後死亡している)その愛する存在によって心を満たすことができた。という一節がある。正直他人から見れば狂気に陥った人間にしか見えないが、それが彼にとっての救いであったことは間違いないのである。そしてその愛する存在は後半の章で述べられる生きる目的へと繋がる。「なぜ生きるかを知っている者は、ほとんどあらゆる如何に生きるか、にたえるのだ。」というニーチェの引用を用い、ある人は愛する子供に再開するために、別の人は自分の研究テーマを完遂させるという自らの責任を持つことによって今の地獄を切り抜ける助けになる。運命に翻弄されることを耐えることができると語っている。……ただ囚人によっては耐え忍び家族との再会が果たせたものばかりではないことも述べられており、運命というものを真摯に描写していたのが印象に残っている。

 そして、この運命に対するフランクルの考え方が非常に特徴的だ。そういった運命は、我々が人生の意味を問うのではなく人生に問われていると考え、そしてその問は人によって瞬間ごとに変わる再現性のないものであるという。決して誰も肩代わりをすることのできない具体的な状況を生み出している。と。事実彼は本の中で運命の問に対して明確な行動を(あるいは意思表明)をもって強制収容所からの生還を果たしている。……ただ、ただこれはやはり究極の運ゲーと捉えても仕方のない状況である。彼が医師であったから、偶々ある状況であったから、結果として死を避けられたケースが本書の中で出てきた。あのような生命がもはや生命とはみなされない状況において、生き残る望みを捨てずに粛々と耐えるということは、万人に可能であろうか?

 人間というものを考えるにおいてこの本は大きな意義を持っている。やはり誰もが劣悪な環境におかれている収容所ですら相対的な幸福を妬む風潮があり、自分の仲間を贔屓することがあったということだ。また、解放された者がその後に待ち受けていた運命についても触れている。彼らの中には自分の受けた不幸に対しての補償がなかったこと、そしてその不幸が他人に受け入れられなかったことによって荒んでしまった者もいる。そういった「神経戦」の前線においての出来事を私はすべて受け止めきれない。しかし、最後の方で著者は大切なことを述べている。それはグループひとまとまりで人々を判断してはいけないということである。親衛隊に属している看守の中には私財から囚人用の薬を買っていたものがいたこと、逆に囚人用の中でも等級の高い者が他の囚人に対して暴力をふるうこともあったという。「純血」なグループなど存在せず、品位のあるものとそうでないものがあらゆるグループに潜んでいる……。

 この本は近年生き方の指針として広まっているらしい。だが、内容から考えるとフランクル自身しなやかでありながら芯のある人間である。私が同じ状況下に置かれた時とてもじゃないが理性による抑制が働くとは思えない。もちろん本の中では死が意味をなさないわけではないと記述されているが、やはりすぐには受け入れられない。しかし、こういった本は無意識の中で何年も醸造され、初めて理解に至ることが多いので今は心に留めておくことにしよう。また、この本を読むことによって新映像の世紀の「いいや、あなた達は知っていた。」についてもまた再考することができるかもしれない。彼らが抱いていたものは決して単純に説明できる感情ではないだろう。

 最後に心に残った一節を引用して終わりたい。

 オットー、君は今どこにいるのだろう?まだ生きているだろうか? あの最後の一緒の時間以来、君はどうなってしまったのだろうか? 君は君の妻に再会しただろうか? 君はまだ想い出せるかい?…… どんなに私が当時、子供のように泣きじゃくる君を無理に強いて一言一言私の口伝えの遺言を暗記させたかを。……



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