先日6年近く使っていたツイッターのアカウントを消した。
あのアカウントは高校卒業直前に作り、大学の2学期くらいまで放置していた。
本来は絵を練習するための垢だったが、リア垢兼ゲーム制作用になり、最終的にあるゲームの界隈垢になった。
そのゲームがきっかけになり絵を描く機会が増えたので巡り巡って元の用途になった気もする。
なので思い入れも深いアカウントだったが数ヶ月考え、ついに消すことを決意した。
きっかけはいくつかあるものの、一番の原因はネガティブな政治ツイがTLに頻繁に出現することになったことだろう。
考えてみれば、コロナ禍あたりからインターネットはどうもきな臭いものになっていった。(ここらへんの肌感覚は諸説ある)
やれ陰謀論だの反ワクだのPostTruthだのQアノンだの。今まであれば一種の”お祭り”として捉えられていた言説は
歯止めの利かない怒鳴り声のように変化していった。スマホ等の普及でインターネットがパブリック極まるものになり、
パンデミック下での政府の政策は国民にドラスティックな影響を与える。それ故に政治的関心が高まり、
インターネットで発散されるのは自然の摂理なのかもしれない。だが、あまりにも加速しすぎていた。
そんな中7月に元首相が暗殺されるという大きな事件が起こる。アフィサイトは数ページ埋める勢いでまとめ、
ツイッターのトレンドは一面関連ワードが並んだ。
そうした中でFF内の数人がこれでもかという政治ツイを繰り返しているのが目に留まった。もともとここ数年で
余裕のない発言が増えてきたと思っていたが、今回のは直視できない内容が多かった。
例を挙げれば、暗殺は政府を裏で手を引いてる人が仕組んだという内容の動画を貼っていたり、同情票はやめて
〇〇党に入れろ!だのを拡散していたり。殺気立った雰囲気で包まれていた。
ツイッター上ではたまに絡む人であったためにリムーブもし辛いし、悪い人たちではないと思って入るのだが、距離を起きたいと思った
そうでなくともネガティブな気分でいっぱいだったので他人の閉塞感を抱え込むほどのキャパシティは持ち合わせていなかった。
まあ、私自身ネガティブなことを頻繁につぶやいてしまうのでこれも良くないなと思っている次第である。(なかなか改善できないが…)
何れにせよ、界隈に入りたての頃より雰囲気が変化してしまった。未だ変わらない人もいるので人によるとも言えるが、
さらにある程度親しい(と一方的に思っている)人のログイン率も下がったようなのでもういいか…となりアカウント削除に至った。
こんな自分だが界隈と関わらせていただけてほんとうに感謝している。元々集団に馴染むのが不得手なので深くは関われなかったかも知れないが。
しかしながらインターネットはいつからこんなに現実と仮想の境目がスペクトラムな状態になってしまったのだろうか?
私がインターネットに触れ始めた2010年前後にも過激な意見が一定数存在したが「チラシの裏」とか「ネットde真実」
といった言葉で茶化され、あまり激化しなかった気がする。それとも自分のスルースキルが弱くなっただけかもしれない。
ただ、インターネットは死んだ。これは確かだ。いかがでしたかブログにどうやってもトレンドを見せてこようとするSNS。
どう考えても一昔前のインターネットは死んだとしか言いようがない。アナーキーでありながらエンターテイメント性に富んでいた…
こんなこと書いてるとただのネット老害にしかならない。やめよう。兎にも角にも私は再びコンテンツを楽しむ心を取り戻さないといけない。
現実がいかに苦しいものであっても。それについてあれこれ考えても何も打つ手はない。昔からそうなのである。
それよりも自分を満足させることを第一に考えられるようにしていきたい。昔はそれが得意だったがいまはからっきしなので
また、少しずつできるようになれたらと思う。
また、昨日に引き続きインターネット関係の話になってしまうがどうしても書きたかったので仕方がない。
私は検索依存的な症状に悩まされていて、よく疑問に思ったことを検索しては無駄な時間を過ごしてしまう。
大抵は知っても知らなくてもどうでもいい情報であったり、いまいち歯切れの悪い回答ばかりであったりといい気持ちになることは少ない。
それはネット上の情報は個人的考えや主観ベースのものがほとんどであり、まともな情報があってもそもそも判別不可能だからなのだと思う。
例えばパーツの激安情報であったり、ソフトトラブルの解決策であったり、ベンチマークスコアだったりと定量的で確かな情報は役に立つが、
おすすめの飲食店、良い作品、人生の生き方…人によるとしか言いようがない部分までネットの情報に身を委ねてしまうのは良くない。
確かに大勢が納得する選択肢は安全であり、理解を得やすくある程度手段が確立されているというメリットはある。安牌と言うべきか。
でもどこかで一番納得のいかない自分を無視してまでききいれるべきなのか…というよりもいちいちそんなことを調べる必要があるのか。
結局これは自分の中の完璧主義者が主張をして絶対に失敗を受け入れない、踏み外したくないと声を大にしてして主張しているから起きている話だ。
先日、 Googleのレビューが悪いコンビニに入った。別に特段変わったことはなかった。逆に評価の高い病院へ行ったら門前払いをくらったこともある。
ちょっと田舎へ行けばネットの営業時間があてにならないこともしょっちゅうだった。コロナ禍もありへとへとになりながらコンビニに行ったら休業中と書かれてたときは参った。
なかなか入りづらい個人食堂も小一時間迷った挙げ句入店したら店じまいするところだったということもあった。あれは哀しかった。
なんか話が大幅にそれてしまったが、結局ネットで調べても間違ってることもあるし、実際に自分で経験しないとわからないことがほとんどだということだ。
それはある意味人間が人それぞれ個性を持っている証拠なのかもしれない。だからこそ「人による」ということが多発する。他人のやり方が正しいとは限らない
ある人にとっては効率が良くても自分が真似できなければ意味がない。自分の中での最適解を見つけるために行動しないといけない。そしてそれはインターネット上に明確な答えは存在しないだろう。
もちろんヒントくらいはあるだろうけれど。あると思う…としか言いようがない。その程度のものなのだ。でも自分の軸を見つけるって大変だけどね。いや難しい…。
なんかあといくつか書こうと思ったけど眠くなったのでこれくらいで終わる。他人が他人であるように自分は自分なのだまる
なんか夏バテをしたみたいだ。最近目覚めはスッキリするものの数時間経つともう起きてるのが辛い。自律神経がおかしくなかったようだ。
今年はなんか気温差が激しい気がして体がもうついていかない。もうちょっとグラデーションをもって気温が変化してほしいものだ、と地球に言っても
到底聞き入れてはくれないだろう。まあ過度に冷房を使っている自分にも非があるんだろうけど。起きたら肌寒いくらいの温度設定はやりすぎか……。
にしてもすぐ布団の上で寝っ転がる癖を直したい。とてもじゃないけど作業どころではなくなる。最近やっとスマホのロック機能を使ってあまり寝床でいじらないよう試みてるけれど
結局夜以外に寝てしまってはなんの意味もない。まあ布団を畳めばいいんだけど、そういうのはどうも苦手で…。
さて日常の困りごともそうだけど最近カメラについてよく考えていることがある。端的に言えば「カメラもういらなくね」問題だ。
私がカメラを触りだしたのは小学生の頃だったはずだ。家にあるコンデジでゲームの画面ばかり撮っていた。全くカメラらしい使い方ではなかった。
まともに写真を撮り始めたのはそれから数年経って、高校に上がってからヤフオクでソニーのNEX-3を買った頃からである。
ガジェットとして面白そうだとか、あの娘の気を惹きたいとか邪な意図もありつつ細々と写真を撮り始めた。
一番撮りたかったのは天の川だったが、光害の強い地域にいた事と部活が忙しかったのもあって全然撮れなかった。
一度、修学旅行で九州に泊まった時、どうしても外を撮りたくて入口で門番をしている自衛隊出身と噂の怖い先生に頼んだらこれがあっさりと許可された。
ホテルの近光害のせいで撮れた作品は微妙だったが、頼んで見るものだなと、印象的な思い出になった。
何はともあれ本格的に天の川を撮れるようになったのは大学に上がってからである。NikonD5200を買ってから夜の海岸に行き、北海道の山の中に行き…色々なところで撮った。
最終的に今はNikonD750に数本のレンズを所持しているが、どれも星空を撮るのに使ったことがあるものばかりだ。数年の間にノウハウも蓄積されてどういった場所が確実に撮れるか、
いつ頃行けばいいか、見通しが立てやすくなったがそこでもう情熱が冷めてしまった気もする。そこで冒頭で出てきた「カメラもういらなくね」問題だ。正直自分が一眼を握っている間にスマホ・カメラは
ものすごく進化した。ナイトモードとかいう手持ちで手ブレなしで夜景が撮れるというとんでもない機能さえある。センサーサイズの暴力で星空はまだ一眼レフが勝っているものの、旅行の記録写真などはもう
わざわざカメラを取り出すのが手間になっている。いやいやそういう面倒さも趣味のうちでしょ?と言われればその通り!と言いたいところだけど実際最近あまりカメラをいじってない。ここ数週間は無理やり取り出して
使っているが何を撮ってもすっきりしない。このままではカビどころか苔が生えてしまう。今まで撮ってた写真はきれいな風景だったり、満点の星空だったりするが個人的にはもう腐食気味になってる。
あえて、日常の風景を撮るべき?何気ないものにフォーカスをあわせてみるとか?うーんとりあえずやってみるか。やっぱカメラなんぞいらなくねという考えを否定したい自分がいる。
どうせ写真で食ってるわけでも、誰かが自分の作品を待ってるわけでもないんだから肩ひじはらずに撮ってみるのがいいのかもしれないけどね。それはそうと一インチのコンデジほしいなぁ。
今日はPortal2を友人とプレイした。Steamゲーマーであればだれしもなぜかライブラリにしれっと入っているあれだ。一作目はクリア済みだったが2はCOOP推奨なこともあり手つかずだった。
はじめはまあ一昔前のゲームだしな…と舐めていたけれど思った以上に面白かった。記憶の限り前作よりギミックも追加されていて、それもあくまでポータルを使った範囲なので世界観も保たれていた。
こういうパズルゲームはゼルダ以来だろうか。最近対人ゲーかストラテジー系しかやってなかったのでじっくりと時間を掛けてステージを攻略するのに逆に新鮮味を覚えた。ゲームの原初的な面白さと言っても過言ではない。
それに加えて友人とCOOPで遊ぶ楽しさはひとしおだった。最初は「なんていうかこう…救われてなくちゃいけなんだよな。静かに孤独に、楽しく…」などと斜に構えていたもの、やいのやいの言いながらパズルを解くのは燃えた。
昔友人宅でマリオパーティとかのパーティゲーをやったときに似た感覚だった。結局ああいうのは効率を求めてプレイするのではなくてゲーム感覚を共有するのに楽しさを覚えるジャンルだった。Portal2にも同じような面白さがある
自分がパズルを解いた時は得意気になるし、先に解かれた場合はちょっと悔しくもあり、なるほどと関心する。そして両者詰まったら相談しながら解決していく。レベルデザインも相まってスッキリとした感覚を味わえる。
ゲームでは箱庭に詰められた小さな幸せを見つけることができる。そう思わせてくれるゲームだった。まだクリアしていないので明日以降も時間が合えばプレイしていきたい。
しかし、このPortalというゲーム一作目は学生の卒業制作の作品だというのだから驚きだ。ストーリーは2001年宇宙の旅をオマージュした内容だがゲーム部分は何食ったらそんなギミック思いつくんだ?と思ってしまう。
自分だったら一生思いつかないような発想が一学生によって形造られる…。最近そう言うの多いけれど負けたくないなぁ。自分もなにか作れないかな。とはいえゲーム制作は2本くらい作ったところでもう頓挫してしまったし…
イラストとか?今日は塗りの練習でデジタルで塗り絵をしたけどまだまだ上手くは描けないなぁ(練習した画像は著作権を考えてアップできないけど)。ま、portal面白かったという話でした。それではまた~。
今日はやることをやったので快活クラブに行った。実は快活クラブを旅行中の宿泊施設代わり以外で使うのは初めてだったりする。
考えてみればマッサージチェアを3時間使ってジュース飲み放題、漫画読み放題で1100円は得ではないのか?
そんな時間独占していたら銭湯のマッサージチェアなら3000円位かかってしまうぞ。
さて快活を満喫しながら今日は「岡崎に捧ぐ」というエッセイ漫画を一気読みしてしまった。
作者の山本さほさんを始めとして不思議で魅力的なキャラクターが出てきて、時代や環境の変化と心情を面白くも、少し切なく描いている作品であった。
結構エッセイ漫画は好きなのでつい読んでしまうのだけれど、人の半生を追体験するような感覚なので最後の方は息切れをしてしまう。
自分の人生ですら弄んでいる状態なのに関わらず他人の人生まで己に内包してしまえばアイデンティティクライシスどころの騒ぎではなくなってしまう。
しかしそういう認知の歪みをどこかで楽しんでいる自分がいることも事実なのである。ん?快活クラブ関係なくなってしまったな。まあいいか。それではまた~。
昔の話になるが、小中学生の頃、計算ドリルが退屈で仕方がなかった。計算ミスも多いし文字を書くのもめんどくさいしで二重苦だった。だから小問を”敵”に見立てて解くと次のステージに進めるゲームだと思い込んでやっていた。 四捨五入のスラッシュは物理攻撃~みたいな感じで脳内で擬音を出しながら解いていた記憶がある(そんなんだから計算ミスするんだと言われれば仕方がない話)。授業中も聞く気がなくなるとろくにやったこと無いくせに格闘ゲームのステージを落書きして一人二役でずっと遊んでいた。 たしか黒歴史漫画はボクらの太陽とゼルダの伝説に完全に影響されたものを描いていた。ちなみに一度ニコニコに紙芝居動画を出したらyahooキッズに帰れと猛批判を頂いたこともある。良くも悪くもあの頃のニコニコは勢いがあったな(遠い目) そんな脳内だったので好きな曲はゲームのBGMだし小4の時ネット触れ始めてからもずっとゲーム関係のことばかり検索していた。おかげでゲーム以外の周りで流行っているものには全くついていけなかった。でも一緒にゲームをやる友達はいたし、もちろん公園とかでも遊んでいたのでべつに孤立していたわけではない、はず。
塾に通っていたときですら講師とゲームの話をしていた。英語なんか指定されたページはすぐ終わってしまうため授業の半分以上は今度出るハードがどうのこうのとか、今考えれば中2病前回の知ったかぶりを披露していた。最もあの塾の講師の影響でFPSを始めるようになるわけだけど…。 そんな自分が一番ゲームから離れていた時期は高校の時である。部活が忙しかったのと面白かったのであまりゲームをやる機会がなかった。引退後の受験期はPCもゲーム機も押入れに追いやり唯一の娯楽はぼくのなつやすみ2の毎日実況とのんのんびよりりぴーとの放送だった。 今考えればどうやったら1年間家でコンスタントに勉強ができたのか謎である。まあ…わかる部分はあるけれどちょっとここには書きづらいものもある。ちなみにスマホブラウザは自分でロック掛けたくせにグリッヂを見つけて解除するというバカをやった。この頃からネット依存はひどかった…。 しかし、受験も終わってしまえばそれまでの勤勉な毎日はどこへやら、全集中力はGTAⅤのロスサントスを駆け巡ることに注がれた。大学時代もそこそこゲームをやったがオンライン対戦系更にいうとPUBGとかバトロワゲーばかりやっていた気がする。 かつてはゲーマーを自称していた割にFFやDQの本編をやったこと無いなど疑問点も多い自分なのでもう少しソロゲーをやってみたいなと思ったりしている。
そんな自分だったが最近はめっきりゲームをやらなくなってしまった。いや時間がないとか言うわけじゃなくて単に重い腰が上がらないのである。ついついネットで毒にも薬にもならない…もしかしたら毒になるような記事や投稿ばかりみて時間を浪費している。 これは打破すべき問題であるが、それはそれとしてゲーム脳は相変わらずである。チャンスっぽい状況だとやったこともないパチンコの効果音が頭をよぎるし、苦手なことは国民精神でデバフがついてるとか勝手に解釈して暮らしている。 オープンワールドのように自由に世界を駆け巡りたいと考えているし、ある日アドベンチャーが始まらないかなどと期待しながら生きていたりする。一体大人になるとはどういうことなのか…。ピーターパン症候群そのままなのか。そういえば昔ピーターパンという名前のリサイクルショップでSFCのゲームを買って…
今日は久しぶりに絵を描いて、ついでにこのHPに自販機の欄を追加した。なので本当は今日も思っていることについて書き込んでやろうと思っていたがもうクタクタなので明日に回そうと思う。
一応日記をつける人の心理についてすごく雑な考察をしたのでそれを書きたかったがもう眠くて限界なので明日書く。ではまた~
なぜ、日記を書く文化はあるのか。ホームページやSNSは明確に承認欲求がある。誰が見ているのかあまり想像できないこのホームページですらネットに公開している以上、 人に見てもらいたいという気持ちがあるから書いているのだ。しかし、日記は完全にクローズなものである。基本的には書き手以外の何物にも見られることはない。 昔、大学の授業で「言語は伝達することによって成り立つ。だから自分にしかわからない言語を作っても成立しない。」と言われた記憶がある。 そう考えると、日記はある程度の人が理解できる言葉で書かれながらも伝達することを目的としていないので言語的活動とは言えないのではないか。 ますます日記を綴ることが異質な行いに見えてくる。もしかしたら、後世に記録を残したい、とか公表されることを実は望んでいるのかも知れないが、そんなタラレバだけで 文化が広まるとは思えない。私がインターネット時代の自己主張に慣れすぎただけで、自分だけのために記録をすることはなにかいいことがあるのかもしれない。 私自身、日記をつけようと思ったことは何度かあるが、文字を書くのが苦手なのですぐ投げ出してしまった。長時間手書きで文章を書くなんてめんどくさくてやりたくない。 まあ、昔の上流階級に日記の文化があったところから考えると当時の彼らにとって手軽な趣味であって、それが広まったのかもしれない。考えてみれば子供が誰にも見せずに落書きをするのと大差ないのかもしれない。 自分だけの箱庭の創造的な趣味としての日記。ではまた~
今日は前々から読もうと思ってた"夜と霧"を読み始めた。とはいっても前文に解説が60ページくらいあるので結局本編にはたどり着かなかった。 前々から読書スピードが遅いのがネックだったが今後も改善は見込めなさそうだ。まあ早く読むことがいいわけではないさと自分を慰めている。
今日書こうと思っていたのは作品などの解釈についてだ。私も二次創作同人を一応出したことのある端くれなので作品解釈についてはどこまでが認められるのか?だとか これはやり過ぎではないか?とか色々悩んだ記憶がある。原作レ○プと呼ばれるようなことを平気でやる人もいれば、できるだけ作品本編から推察可能な範囲で二次創作をすべきだ派もいあるわけだ。 私は原作準拠派だが、正直逸脱したほうが面白いだろうな、だとか少し柔軟性があってもいいんじゃないかとか思ったりもしている。現に突拍子もない作品は割と面白かったりもする。
今よりもガチガチな考えだった時衝撃を受けた出来事がある。大学の授業で教授が井上陽水について取り上げた。なんでも彼は時代や世間の空気感をうまく曲に落とし込んでいる天才だ、と。 でも本人は別にそんなことを考えて作っているわけじゃないと明言している。そこが”天才のもつセンス”なんだ、と。無意識にそういうことができてしまう天才なのだ、と言ってのけた。私は衝撃を受けた。 作者が考えていること以外は考察しようがないと思っていたので、センスや無意識で作っているという発想そのものがある種コペルニクス的回転をもたらした。 また、別の講義ではこうも言われた「作品は作者の元を離れた(公表された)時、作者のものではなくなり、読者に解釈は委ねられる。」そ、そうなのか。じゃあ……なんだっていいじゃないか。 どう考えようが、それが作者の意に反するものであっても……。いわゆる俺の宇宙なのか。
そんなわけで最近は、もう自分が納得できる範囲で考察し、解釈するのがいいのではないかと考えたりしている。昔の癖が抜けないのでなかなか難しいけれど。創作活動なんて基本自由であるべきだよな……。 ではまた~
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ふと思い出したので、自分で考えた思考実験を書いておく。自販機問題と適当に命名しているものだ。 例えば自販機に小銭が落ちていてそれでジュースを買うことについてどう思うか。という簡単な思考実験。 多分100円程度であれば(犯罪だが)卑しいなくらいにしか思わない人が大半なんじゃないろうか。でも1000円だとちょっと見逃しにくいかもしれない。 10000円は?逆に大半が見逃さないだろう。交番に届けるべきだと思うはずだ。本質的には100円も10000円もお金であり、落とし物の場合交番に届けるのが適切な行為だと理解しているはずなのに、金額で印象が変わってしまう。 そしてこのボーダーは人によって様々だ。中には厳密に1円たりとも許さない人もいるだろうし、ひょっとしたら落ちてるんだから5000円でも使ってもいいだろうと思うかもしれない。
さらに追加するとこの100円が素で落ちているのではなくて、財布が落ちていて中身が100円だけ、その状態で使うのはどうか?私はかなり抵抗がある。逆に、実際の経験で財布をゲーセンで落としたら見事に札だけ抜かれてたこともある。 では、1万円が落ちている。で、熱中症になりかけの無一文の男がそれで飲み物を購入するのはどうか?責めきれるか?結構難しいと思う。
このように普段人は非常に無自覚な状態で、物事を判断するボーダーラインを持っている。そしてそのラインの上下は人によって異なる。なので例えばSNSでの問題提起は荒れやすい。 このラインの違いを意識していればすり合わせることも可能なのかもしれないが、基本的に押し付ける形になることが多いので不毛な言い争いで終わる。 こう考えると、法律というのは大多数が納得するボーダーラインを設定するという点で大きな意味があり、やはり共有するべき基準として用いられることも多い。 (もちろん法は万能な尺度ではないが)
まあエセ哲学みたいなこと言ったけど要は意見のすり合わせって難しいね。それはなぜかを自販機問題として考えてみたよって話。ではまた~
もう日記じゃない、ただの思考の掃き溜めである。日記とはかけ離れすぎていよいよ書くのを忘れて寝るところだった。 まあいいや。今日は夏らしさについて駄文を連ねていこうと思う。これは私がかれこれ3年位考えているのだが、イマイチはっきりしない。 日本人はなんだかんだ夏が好きである(クソデカ主語)。夏はイベントが豊富だし、創作作品においても一夏というのはやたら重視される。 これは地域によっては冬は動けないとか、学生の夏休みは自由がきくとかそういう都合もあるだろうけれど、ノスタルジック極まる風景はやっぱり夏だし、夏という言葉自体ポジティブな印象が大きい。
じゃあ夏らしさとはなにか。暑ければ夏なのか?いや違うだろう。今年の6月はやけに暑い日が多かったがセミが全く鳴いておらず季節感がなかった。……晴れていて……騒がしくて……暑い。やっぱり外せない要素はいくつかある。 正直近年の猛暑は夏らしさを逸脱仕掛けてるとも感じているので暑すぎても行けない気がする。3年前、キャンプ場の短期バイトで避暑地にいたがかつて無いほど夏らしさを感じた。 バイト中の殆どの期間が曇りで暑さ対策など皆無で過ごせたにも関わらず「ああ、これが夏か……」としみじみ感じたものである。正直このときの雰囲気を求めて色々なところに行くようになったが同じような気持ちにはなれなかった。
最初はキャンプ場という非日常にいたから夏っぽかったのかと思ったが、最終的に違うことに気づいた。あれは、短期バイトといいながら3週間近く同じ場所にいたから手に入れられたものである。 完全にぼくのなつやすみそのものだった。人と交流しながら暇なときに散策をして、一日一日の僅かな違いを噛み締めていく。ああ……そんな単純なことにも気づかなかったのか。 考えてみれば作品における夏というのも唐突なものではなく、いつもの日常の延長にある。学園モノの部活……、日常ものの部屋……。イベントだってそうだ。花火大会にしかり夏祭りにしかり、見慣れた土地の非日常イベントが楽しいのである。 日常が、賑わうのである。
ここまでつらつらいっててなんだが私が日常のなかの非日常が大好きだからバイアスがものすごくかかっていると思う。まあチラシの裏だし勘弁してほしい。 は~こんな事書いていたらもう八月も折り返しか……。はやいものだ。ではまた~
今日は絵を描いた。pixivに載せる絵をひと月に2回描いたのは初めてかもしれない。今まではTwitterのみに出すことが多かった。 単純に描いた絵を気軽に見れるツールとしてアップしたほうがいいと思ってここ2作品くらいは上げている。まあしかし、pixivにしろtwitterにしろ一度上げてしまうとどうしても閲覧数といいねの数が気になってしまうものである。 あまり気にしても捗らないし、精神衛生上良くないと思って放置しようとしているが、正直むずかしい。
けれども、ここ最近、絵を描いている間はあまり人に見せることを意識しないでいれる。どうせ下手だしアカウントも新運用に近いので殆ど見られないだろうと一周回って肩の荷が下りている。もちろんいいねを頂けるのは非常にありがたい。 しかし、完成させること、描きながらどういうアプローチを試すかそういう時間を楽しめている感覚がある。誰かに見せる、上手くなるため、というのが第一に来るとどうしても窮屈な感覚に陥ってしまう質なので、個人的にはいい傾向だと思っている。 そういう劣情を上手く昇華できる人が羨ましいと思いつつもこればっかりは個人の性質なので諦めるしか無いか。
というわけでお絵かきを独りゲームをするように楽しめているわけだが、じゃあなぜ今まで晒すことを前提にしていたのか?と逆に思ってしまったわけである。もちろんイラストや動画……創作作品というのは人に見せる目的が強い。故に見せられるものを作らねばとどうしても思ってしまう。 その道のプロならともかく勝手にやってるだけなのにそんなふうに思っている自分が変に感じた。ゲームならいちいち人に見せるためにやるか?そりゃ魅せプとかいいリザルトだったら晒すとかはあるだろうけど副次的な要素が強い気がする。結局やりたいからやる。それが一番だ。 それなのに絵を描くときは逆転してしまうのである。もちろんネット上でコミュニケーションとしてのイラストがあるのは認めているが、私はあまりそういうことが得意ではないので勝手にやっているが……それでも人に見せることを強く意識してしまう。
昔、教育心理学の授業かなにかで「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」の関係を学んだ。簡単に書くと、児童が自分から進んで落書きをする「内発的動機づけ」と、お菓子をあげるから落書きをさせるという「外発的動機づけ」を比較した時、どちらがモチベーションに繋がるかという話だ。 結果としては「外発的動機づけ」、つまりお菓子を目当てに落書きをした児童は、もらえなくなってしまった途端描くのをやめてしまった。というものだったはずだ。
これと同じことが自分にも起きているのだろう。誰かに見られる、評価されるという「外発的動機づけ」を目当てに描きがちである。 しかしそれはランダム性も高く、そもそも人に合わせることが苦手な人間がそんなことをしても長続きしないのである。どっちが良い悪いじゃなくて自分に合った楽しみ方を選んだほうがいいという話である。 自己満足を極めたい。そういう話。ではまた~。
見たい作品がたくさんあるはずなのにいざ時間があるとダラダラと過ごしてしまう。しかも、はて?何が見たかったんだっけ?っと忘れてしまうことも多い。 今日図書館に行った時、DVDコーナーに「許されざる者」と「荒野の七人」が置いてあった。これらはRedDeadRedemptionの元ネタとも言われている作品なのでぜひ視聴しようと 思いながら完全に頭の中から抜けていた。
こういうことを防止しようとたまに「見たい作品リスト」を作ってはどこかにやってしまい結局いつも忘れてしまう。せっかくだから今度このホームページに書き込んでやろうか。 もし見たら感想ページを設けてみるとかもありかもしれない。まあそうやって強制的にしたら今度は気が滅入って見なくなってしまうかもしれない……。うーん、難しい。でも、一度くらい やってみるのもありか。自分のサイトだし、途中で投げ出してページを消しても誰にも文句は言われまい。と、そんなことを考えて実行に移さない。会議は踊る、されど進まず。ではまた~
今日は一日中ソワソワ感が抜けなかった。はっきりとした理由が1つだけある。明日、旧友に会う約束をしているからである。彼とは幼馴染のようなもので、趣味の話などは一切しなかったもののよく遊んでいた。高校に進学して以来疎遠になっていたが、今年の五月に偶然が重なり久しぶりに再会した。その時に私の惨状は話しているので今更取り繕う必要など無いが、やはりしばらく会ってない友人と遊ぶというのは考えただけで緊張する。
元々私は変化に弱いタイプである。正直親しい間柄が変わったりすると複雑な気分になる。そのせいで高校時代は迷惑をかけたこともあった。今では自覚をしているので対処……どうだろうできているだろうか……。自覚しているだけマシか。しかし、彼はあまり変わってなかった。もちろん社会に揉まれ色々考えるようになったが性格は相変わらずだと思う。ちょっと……いや、かなり安心した。
明日も昔よく集まっていた公園に10時に集合することになった。それからのことは成り行きに任せる。そこまで昔と同じにしなくてもいいんだけどな。むしろ変わったのは自分のほうかもしれない。朝10時なんて起きるのが辛い。果たして無事に起きれるだろうか……。ではまた~。
今日は久々に旧友と遊んだ。当日になってもう一人来ることを知り合計三人で出かけた。最初はリズムを合わせることができるかと心配だったが会ってしばらくすればまるで8年のブランクなどなかったかのようにすっと昔の感覚で話すことができてホッとした。やはり高校進学以降は様々な道を通ったようで皆色々な気持ちを抱いていたが、話す内容や仕草などタイムリープでもしたのかというくらい昔のままで相変わらずだなと思った。
しかし、義務教育期間に知り合った人というのは不思議なものである。特段共通の趣味を持つわけでもなく、得意不得意も全く違うのにも関わらず関わりあっていたのだから。考えてみれば昔もよく遊んでいたにも関わらず、あまり共通の趣味で盛り上がったことはなかった。なんなら彼らの趣味をあまり知らない。その場の環境のつながりと共有で仲が良くなった。それに対して高校以降はやはり共通の趣味や考えで親しくなった人ばかりだ。
色々書きたいこともあるが正直かなり疲れたので印象的だったことを一つ綴って今日は終わろうと思う。昔私は学校の教師によく叱られていた記憶がある。そこで旧友曰く、ある日図書室で教室内を走ったということで私とその旧友が叱られたらしい。しかしそれは教師の見間違いで反論したが非を認めず教師は去っていった。それに対して私は頭にきたらしく「ちょっと行ってくる」と言って独りで抗議しに向かったらしい。その後のことは詳しく聞くのをやめたらしくどうなったかはわからないとのことだった。
正直自分でも全く覚えていないのでどうなったかは本当にわからない。まあ多分聞き入れられることはなかっただろうと思うが。もしかしたら日和って何も言わずに戻ったかもしれない。でも当時の自分だったら主張を捻じ曲げなかった可能性も高い。ちなみに図書室で怒られたところだけは記憶している。多分喋ってたからだったと思うけど……。しかしもし彼の言うことが本当なら当時から権威に対して牙むき出しで生きてきたことになる。それは参った。ただ生きにくいやつではないか。……なんてね。ではまた~。
公園、どこにでもあって唯一のものである。出かけた先にある公園、マンションの脇にぽつんと存在する申し訳程度にベンチと砂場だけがある公園。なんの思い入れもないけれども昔からそこに住む人にとってはかけがえのない思い入れの深い場所なのかもしれない。
昨日、旧友といつも遊んでいた公園に行った時色々な記憶がフラッシュバックした。ただの公園にこんなにも思い出が詰まっているとは考えてもなかった。そしてそんな場所なのにも関わらず長い間訪れることがなかった。奇妙な場所である。まるで子供時代をそのままそこに置き去っていたようなものだ。
そしてそういう場所はもう今後作ることができない。純粋に遊んだ記憶で埋め尽くされた公園はもうあそこだけだ(厳密にはあと2つくらいあるけど)。そして新しく越して来た人にとってその公園は何の変哲もないただの公園にしか見えないのだろう。逆に言えば私が今後訪れる場所全部に同じことが言える。つくづく我々は洞窟に写り込んだ影で物事を見ているんだなとノスタルジックな気持ちに浸りながら感じた。ではまた~。
今日はひたすら眠かった。描いていた絵もおもったより難しくて頭を唸らせていた。途中オレンジジュースを布団に盛大にこぼして干したりとあまり順調とはいえない日だったな。とは言え少しづつでも進めなければ完成しない。100は無理だけれどやらなきゃ0だと思いながら少しづつ進める。
今日は今まで撮った写真を見直していた。今見返すと彩度盛り盛りで初見の人がみたらちょっときつそうだなと思った。少なくとも絵の背景とかにするならもっと薄めないとだめだな。これはあるあるネタだけど、作品を作ったその時は満足感があってもしばらくして見返してみると「なんじゃこりゃ」ってなるケースが多い。特に写真やイラストはその時の感情が大きく影響するため、客観視するのとだいぶ視点がずれているのだと思う。とはいえ無感情で作品を出すということもあるまい。見返したときにそう思うということは前進している証拠……なのか嗜好が変わったのか。はたまた両方か。そんなことを考えて今日も寝る。ではまた~
none
今日はやっと絵を完成させた。想像の5倍、いや10倍くらい難しかったので頭を悩ませて5日かかってしまった。それに気を取られて昨日は日記は更新しなかった。しかも自分の中の限界がチラチラチラ見えた。まだまだ必要な知識が多い。経験も足りない。でも、一応描いてみようと思って描き切れたのはよかった。本当はもう少しこうしたいというのもあるけれど理想だけ垂れ流しても仕方がないか。
背景あり、2人以上が一つの構図に存在するイラストを描くのはすごく久しぶりだった。こういうのはパースがおかしいとか、等身が揃わないとかそういうのを気にして描くのをためらっていた。単純にカロリーが高いというのもあるけれど。一般的によく言われているが結局描かないと上達しないのにも関わらず変にやる前にこだわってしまい”失敗するくらいなら何もやらないほうがまし”となってしまう現象に悩まされていた。この構図は35mm?55mm?二人いるなら35mmだろう……。とか2点透視図法を使って……。
そんなことばかり考えていたら、果たしていつになったら完成するのか。
こういうことは今までにもたくさんあった。学生時代英語は得意な方だったが、どうせ帰国子女には負けるだとか、もっとできる人がいるから意味がないとかそう思ってやる気がなくなってしまった。もったいない……。そうやって一番にならないくらいならやらない、完璧にこだわってできない。そして結果として何もやらない。この原因は他人を目安に考えすぎていたり、批判されることのない超人でなければならないという、自分の中に神聖性を求める傾向にある。実際の自分は完璧からは程遠いのに関わらず!これはどうにかしたい。どうしたらいいのか……。これもよく言われている話だけれども自分の軸で考えるのが大切なんだろう。まあ、理論だけは理解できる。でも本能は拒否する。バラバラだ。ではまた~。
今日久しぶりにBFを起動したらシーズン2の告知が出ていた。え、お前……出るのか……。シーズン1が確か6月リリースだから2ヶ月ちょっとでシーズンが切り替わる。早いな(感覚麻痺)。前回の放置っぷりから言って1年位経っても不思議じゃないと思ってた。アプデ来たらやるけど果たしてユーザーはどれくらいもどってくるんだろうか。まあ、あんまりハードルを上げないでおこう。
そういえばここのHPにカウンターを設置する際に昔のブログを見たらシムシティ2013の愚痴を書いていた。ぶっちゃけた話ほとんどBF2042と変わらない内容だった……EAくんさぁ……。で、ではまた~。
今日も絵を描いていた。ここ最近はやはり筆が乗りやすいので、鉄は熱いうちに打てというように出来るだけ描くようにしている。本当は模写練習や人体や風景もやりたいのだけれどもpixivに上げているイラスト一枚描くのですら2日以上かかるのが現状なのでこれ以上は詰め込めなさそうだ。あと、描きかけの絵や練習はぷらいべったーかポイピクというサービスに投稿してみようと思う。あまり人に見せるようなものでもないけれど、ネットに上げておくとセーブと似たようなちょっとした達成感があるので。
さて、この間書こうと思ってすっかり忘れてた話をする。河川敷は面白い場所だという内容だ。私はごくごくたまに登山をするが、登山は思ったよりも自由度が低い。適切な装備に安全性を担保し、メジャーな山であれば人であふれているので迷惑のかからないように譲り合いながら進まないといけない。更にいうとルートも基本的には決められたところを通るので実は社会性がバリバリ求められる場所だったりする。(もちろん常軌を逸している人もいるが、多分時空が違う)。ほとんどの山はアクセスが容易ではないため、計画性と資金が必要な点も自由度の低いという点だろう。まあ、それでもやはり山頂でバーナーに火をつけカップ麺を食べてるときは中々味わえない解放感があるけれど。
それに対して川、特にサイクリングロードがあるような歩道の広い一級河川はアナーキーな場所だと思う。人類の歴史を考えても川の側で繁栄しているのもあり、やはり周辺には人が集まる。犬の散歩、野球少年、ママチャリからエアロバーをつけた空力全振りローディ、たまに原付き、釣り人、また釣り人。おいちょっとまてあゆを冬季に釣るのは禁止されているぞ。と思ったら草の生えた堤防で二人乗りでオフロードバイクをフカしている親子。よく見たら子供は自転車用のヘルメットをしていた。高架下でTik tokを撮ってる女学生。吹奏楽部の個人練習。……とまあ枚挙に暇がないが色々な人がいる。そして私もたまに自転車を漕ぎに行けばこの有象無象に溶け込んでしまうのだ。今は夏なので夜に散歩をしていると花火をしている人をよく見かける。またシルバーウィークになればBBQをやる人だかりができるだろう。ここではよほどのことをしない限り存在が許される。流石にBBBQのゴミくらいは持ち帰って欲しいけれども。そういえば、かなり前滅多にないくらい氾濫仕掛けてたことがあった。天気が良くなった日に性懲りもなくどれくらい増水したか見てやろうと散策していたら、お爺さんが水没しかけの堤防の側に寝転がりながら本を読んでいてやけに絵になっていた。まさに終末……穏やかな終末だ。コロナ禍において、こういった場所もどんどん規制が強くなってきているが、このアナーキーさが今後も残ってほしいなと切に願っている。ではまた~。
なんか今日は今描いている絵の顔がしっくりこなくて一日中描き直してたら終わった。本当は今日塗りをやる予定だったけれど進捗は芳しくない。とはいえ一日の後半になってから集中力がいきなり上がるので真面目に描いてた時間は少ない気もするけれど。息抜きの時間に本読んだりゲームやったりしようかなぁ。でもゲームはやると止め時がわからなくなってしまう。積みゲー消化したいが……。
さて、世の中にはPDCAサイクルという用語がある(今はちょっと古いらしい)。だが、私は計画性など一切ない人間だと豪語できる。夏休みの宿題を均等に分配することもなければ期末テストの勉強計画など立てたこともない。教材を根こそぎ持って帰ってはほとんど手つかずにするのが常であった。(ちなみにテスト期間以外は置き勉してた)。というかみんなそんなもんだろう?と思ってたけれど塾講師のバイトをしたら思ったより世間というのは計画性があるということを知った。そんな私なのでPDCAサイクルのPで破綻する。そもそも見通しがつかないのでDから始める。で、Cは面倒くさいのでテキトーになる。AはDをやりながら考える。というDADAサイクル人間である。大学受験はこれでゴリ押した。しかしこれは膨大な時間が必要となるため効率度外視になる。なので今日みたいに絵を描いていると「あーここらへん練習しないとだめだな」とか思う事が多い。しかし、基礎練習は苦手なので中々手がつけられない。仮に手を出しても思考停止になるのであまり効果がない気がする。仕方なく本番本番また本番……みたいなやり方になってしまう。これは効率からは最も遠いかもしれないけど、それ以外の手段を取ることが難しいので仕方がない。There is no choice but to do it.って感じだ。ベストエフォートなんてくそくらえ俺は俺のやり方しかできねえぜ!これぞ現実的効率主義!……と強がってみるけれどコツコツやることの偉大さは理解しているので正直ジレンマだ。もう少し落とし所がないものだろうか。ではまた~。
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昨日はDiscordで話すのに夢中になって更新を忘れてた。仕方ない。
「これが我らの一歩目!」「「鍵を手に入れろ!」」「二歩目は何だ?!」「「暗闇からの脱出!!」」カッコでくくった部分はCoD:BOのキャンペーンの序盤、主人公メイソン達がソ連収容所からの脱出計画を実行に移したときのセリフである。時折この台詞が頭によぎる。こういう厨ニシーンは大好物なのでついつい思い出してしまう。特になにかうまく行ってない時踏ん張りたいと感じているときに多い。人生がうまく行ってるとはとてもじゃないけれど言い切れない今、昔見た数々の作品が最後の支えになってる気がする。自分がどうしたいのか、どう進んでいくのか未だ迷路に足を踏み入れることにすら躊躇してしまうが、そろそろ実行に移さないといけないのかもしれない。
「八歩目だレズノフ……自由だぞ!」「この自由は……お前のものだ……」ではまた~。
今日はアレが復活したり、病院行ったり予定をすっかり忘れてたりで心が揺れ動く一日だった。どうにか絵を完成させた。うーん背景、もっと描くか。ああ、夏も終わるな。ふう、疲れた。ではまた~。
今年も夏が終わった。あんなにも待ち焦がれていた夏だったが大したことをしたわけでもない。夏らしいことはできたかもしれないが、例年のように宿泊を伴った旅行とかはしなかった。それでいいのかもしれない。
ここ数年の自分はどこか遠くに、ひたすら遠くに行こうと考えていた。それは現実逃避と、外界への興味からくるものだった……と思う。俗に言う自分探しだろうか。月と地球の距離を測る時、月に設置されているリフレクターに向けてレーザー光を放つことで測定しているらしい。そう、私は人生の尺度を推し量るためにどこにあるかもわからないリフレクターに向けてレーザー光を射出していたようなものだ。だが、結局知見は広がったがどこか求めていたようなものは手に入らなかった。たしかに知らない場所を行くことは楽しい。外気を感じながら、普段の生活から抜け出した幻想を垣間見る事ができる。でも、やはり朝の目覚めのように旅行もやがて終わる。夢が浮世絵離れして幻想的であればあるほど、現実とのコントラストがはっきりする。夢とは残酷なものだ。夏とは儚い夢を見せるのに格好の時期なのかもしれない。どこにでも行けるような活気に満ちあふれていて、太陽の輝きが自由を象徴しているようにすら感じる。
しかし、出かければ出かけるほど自分の根本的な問題、"なにかを実現したい"という問題からは遠ざかっている感覚になった。綺麗な場所があった。ここの風景を自分で描けたら一体どんなに嬉しいだろうか。見慣れない町で家族が遊んでいた。一体彼らはどういうふうに毎日を過ごしているのだろうか。知りたかった。でも聞く勇気も、考えを表出する気概もなかった。田舎の学校があった。一体ここを舞台にしたらどういう物語ができるだろうか。作るには気恥ずかしさを払拭することができなかった。体はこんなに自由でも、心は全くもって不自由であった。だから次第に夏になるよりも、夏がまだかまだかと待ち焦がれている時期のほうが自分にとってずっと気軽に思えてくるようになった。
ただ、また夏の北海道には行きたい。昔レンタカーを借りて車中泊をして、今まで走ったことのない距離をひたすら走り続けたあの日、禄にキャンプ道具も知らないから電気ケトルでお湯を沸かして大雨の夜にカップ麺を啜った日。免許を取って半年も無いくらいだったのですべてが新鮮だった。運転なんてしないと昔から決め込んでいた自分が、教習所であんなにビビり散らかしていた自分が、一日に200kmも平然と運転している状況が可笑しくて仕方がなかった。でも、色々知ってしまった今はもうあの時と同じ新鮮さを味わうことはできない。初めては永遠に戻らないものだ。だからこそ楽しいのだけれど。
だから、究極的な問題"私はなにかを創りたがっている"という気持ちをどうにか処理しないといけない。どうせ何をやっても下手なんだからすっかり諦めて……普通に生きて……たまの休みに旅行して……それでいいじゃないか……そっちのほうが単純明快でわかりやすいよ。どうせやっても失敗するんだからさ。そう言い聞かせたが認知的不協和の解消に失敗した。出かけても満足できない。だから今月は絵を描いていた。楽しかった。自分の今後だとか、世間がどうこうだとかに気を揉むよりは下手なりにどう描いていったらいいかを考えているほうがよっぽど楽しかった。だから9月も描こうと思う。どこまで続けるかは知らないが。物語も作りたい。人に創作物を、ストーリーを見せるのは死ぬほど怖いが。それでも頭を縦横無尽に駆け巡るイメージを閉じ込めておくことにエネルギーを使うのはそれはそれでつらいのだから。
今年も夏が終わる。素朴どころか人に言えたような夏は過ごせなかったが、別にいいか。楽しかったよ。ではまた~。